#012 グローバルはご近所さんに

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#012 グローバルはご近所さんに

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英語は完璧じゃなくていい。
伝わるかどうかが肝心だ。

 

 

ただ、丁寧に伝えたほうがいいということがどうしても思ってしまって言葉が出ない。
ボクもそうだ。

そういう場面っていうのは、何かしら発起させてくれる。

 

 

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#009 固定観念を打破しよう!

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ドクターが引っ越すと地震が起きる。 だから、人に嫌われていた…。

これは人間の思い込みであり、ステレオタイプである。

人間の理由は確かにあるが、
ネガティブに逃げることは簡単だ。 ”3度目の正直” や ”2度あることは3度ある”、”三人寄れば文殊の知恵”…。
3にまつわるものは多くある。

  苦しい時こそ、楽しいことに目を向けよう。  


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#007 ”ボクロン”すなわち「僕論」=「一人称論」

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回りくどすぎるタイトルと思ったのではないだろうか?

ボクらは表現をして互いに感性を普段から、響かせている。

誰をさしているのか、同じ言葉でも人によっては不快に感じることはたくさんあるだろう。 

人は必ずしも悪気を持たれるような行動にはでない。

だが、普段から日常に言葉を扱うことは人にどのような影響を与えるのだろうか?

 

 

 

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ボクは完璧主義

たからこそ、納得いかなくてもきちんとした文章に仕上げていなくてもブログにする。
なぜなら、ボク自身まだまだ今の自分を認められないでいるからだ。

1.自分に厳しすぎることは余裕を失う

それは自分に対して、
「まだできるだろ!」
「もっといい表現があるだろ!」
と思ってしまうからだ。

認められない自分のことは嫌いであることは事実であるが、それ自体を認めることはできる。
論理とは感情的な表現であるが、ボクはあくまで論理のカテゴリに位置すると思っている。
分化させれば、
実は別アングルで見ることができる。
認めるは安心を抱く、
説得力があるためそのプロセスは大事にしている。

2.嫌い=悪ではない

嫌いであることは
悪ではない。
人間の基本的感情”である。

そのため、
今の自分の嫌いな部分はあれど、
ボクはその今の自分を記そう。

 

3.現在の自分への満足を大切にする

もちろん、
納得のいく完璧な文章が表現できればそれに越したことはないけどね。


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人生に早送りはない

もちろん、チャプターの次へ飛ばすこともできない。

いわば、それはデジタルの概念だ。

人間の行動はアナログでしかない。
結果はデータであり、一つのデジタルに過ぎない。

過去や思い出においてはチャプターの考え方や想起されることはデジタルである。

この考え方はすでに古代ギリシャのアリストテレスの時代からある。

つまり、デジタルとアナログの概念はITの時代から始まったものではない。
行動を簡素化したところで、アナログである。

人間は過程を楽しむことが大切なのである。


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近年のメンターの扱いについて

単なる相談者となっている。 相談者はアドバイザーのような言葉が適宜である。 本来、メンターは意味が深い。 だが、本来のメンターの言葉を活用している人は少ない。 もともとは教育の言葉であるが、現代ではマネジメントの言葉として復活している。 だが、それは大半本来の意味をないがしろにされている。 とりあえず、使う。 だが、言葉の意味を間違うのは本来恥ずかしいことなのだ。 それはまさにヨダレを垂らしながら寝ているようだ。 (ボクは恥ずかしくないが、枕が濡れているのがいただけない…。) こっそりいうと大学生の時にヨダレ垂れ流して寝ることを身につけてしまった。 恥ずかしくない人は多々いる。ここにもいる。 けれど、それは赤ん坊とおじいちゃんの特権だ。 メンターは確かに相談者の由来もなくはない。 ホメロスの叙事詩では、テレマッコスの家庭教師の名をメントールといったに始まる。 映画やドラマのおぼっちゃまの執事がメンターに当たっているといった表現がわかりやすいだろう。 そこの真の意味は、”師”にある。 ボクが言葉にこだわりを持っているのは、言葉を大切にしているからだ。 そして、生まれた意味を知れば、単なる記号も行動促進の素材となる。 ボクのメンターは”師”を意味する。 マネジメント用語のメンタリング・システムは言わば、究極の師弟論だ。


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完成された文章

ボクは人間的な文章は作れる。

ただし、人が求めるものとは限りなく遠くなる。
世の中には素晴らしく、文章を表現される方がいる。

ボクはかつてのコンプレックスから求められるものに応えようと努力したが、結局独自の目線となった文章がそこに残った。

もし、直したなら根本的に直すか、全て別人が書いたような介入が入ってしまう。

人の書かれた文章を活かす。
つまりは、推敲するスキルはないのだろうか?

ボクは文章が書けなくとも、推敲を基に文章を活かすことでできることに気づいた。
そこから、文章を書くことに還元。

まわりくどいが、結局はマネなのだ。

深く考える必要はない。
あなたの文章はもうできている。
ニュアンスの近い作家とで会うことが大切だ。
それは、本でもWEBでもいい。

まず、書く前に自分における良質な文章に出会おう。

いわば、違和感や読みにくい文章書くには、たとえ嫌いでも波長のいい、リズムのいい文章に出会う。

ボクも出会えることには時間がかかった上、なおかつ読み方と書き方を結びつけるのが困難だった。

本は人と同じぐらい大切な出会いとなる。

あなたの可能性は出会いから導き出される。


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ボクの名前、”Dr.Peace”

平和博士ではない。

”オイ!それは詐欺だ。”

あくまで、WEBで使っている名前だ。
このように顔も出している。

いずれ、本名を出したいところであるが、いずれのお楽しみとしておこう。

ボクの下の名前に由来しているとだけ、言っておこう。

学生時代から、使っていた。
かつては、二つWEBでは使っていたが、今年からは統一しようと思った。

NUNCLE(なんくる)という名義を使っていたのは、
もちろん沖縄の方言からきている。

けれども、
沖縄に来てこれほどたくさんの場所やモノ、店に使われていることから、
名前で埋もれてしまうということから、
ボクを知ってもらうには”Dr.Peace”の方がいいと判断した。

本来はなんかしらの表現の時、NUNCLE(なんくる)
学術的、研究名目の名義でDr.Peaceとしていた。

でも、本来名前はどうでもいいのだ。
正直、名前疲れ的なところもある。

まず、見てもらうには礼儀として本来は本名を使いたい。
だが、できない。
それが、ジレンマから始まっている。

さきほどはどうでもいいと言っているが、
理(ことわり)・義の考え方から行くならばとっても重要だ。
(ボクが投げやりになっているだけなのだ…)

いわば、”定義”となるからだ。

それ以上でも以下でもない。
それ自身をさすからだ。

名前、とっても重要に他ならない。

名前はじぶんを言葉で表す表現法の一種。
ここから、表現がスタートしていると言っても過言ではないだろう。


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謙虚さはどこから生まれる

謙虚さは感謝から生まれる。 感謝はどこから生まれる? それは、尊厳からだ。 一般によく使われるのが、リスペクト(尊敬)から来ているものだ。 しかし、尊敬は言葉だけでも表すことができるため。 感謝しているかどうかは行動や態度に大きく依存する。 本気で生きている人は独りよがりな人か謙虚さを持ち合わせた人の2パターンだと考えている。 ボクは言葉も大切にするが、それよりももっと行動を大切にする。 行動は雄弁という言葉があるように人の印象というのはとっても重要だ。 印象は人に受け入れてもらえるかどうか決め手となる。 つまり、謙虚さの表れは敬意を表すに他ならない。 感謝の行動があれば、自ずと生まれる。 まずは、ありがとうからはじめよう。


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過酷な環境で生きる戦士たちよ。

言ってしまって現在状況を知る方が大事。 ボクは、そう思っている。 日本人は恥だという考え、文化が定着してしまっている。 そのため、履歴書にも確かにできるとならなければ書かなくてはならない。   でも、ダメだと言うことだけではとっても簡単だが、現在の状況はわからないし、未来には繋がらない。 建設的に言うことは社会を育てる振る舞いとなる。 だが、社会は厳しいという文句で片付けられる。 もっと、社会を育てようという意識はないのだろうか? ボクは厳しさと冷たさはきちんと分化している。 厳しさは愛がつまっている。 そして、愛がつまっているということは、次に繋げられる。また、信用・信頼がなければできない。 本来は高尚な行為だ。 でも、社会でできる人は多くはいない。 経験や潜在的に身につく人もいるが、スキルで身につけなければならない人も多くいる。 それほど、本来は厳しいには意味がある。 冷たさってのは、ものすごく簡単なんだ。 コップに氷入れる。その行為だけで完了してしまう。 自分だけやひとりよがりの考え方が一番冷たさを蔓延させる。 ボクは教育の舞台に立とうとした人間だから、実感としてよくわかる。 イジメに愛はあるのだろうか? 否、ない。