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社会との壁がなくなれば障害ではない

僕もこの考えには同意だが、誤解を招く恐れもある。

でも、この壁は実際大きい。

ボクは周りに人がいると人のためにしか働けない。
つまり、自分の身を粉にして働く。つまり、粉骨砕身で人に尽くすため、自分のことは忘れなければ働けない。
だから、もどかしい。実際はそれで充実することもあれど、ボクの場合は精神の充実は矛盾してしまって喪失感の方が大きい。

ボクには大きな不安障害と発達障害であるアスペルガー症候群がある。
人とは働けるが、慣れるまでに長時間かかる。
長時間ストレスがあると同時に配慮をしなければ、チームワークは成り立たない。
正直、体力の維持が大変である。

肉体労働はまるでダメなのは幼い頃からなのだ。
そして、2年前に見つかった。ガンもより肉体労働をダメにしている。
だからと言って、ボクは負けず嫌いな節もある。
悔しい思いもして、涙することもある。
けれども、ボクは現状に甘んじたくないし、挑戦したい。
だから、前を向いてやっていくが、それが必ずしも突破できるとは限らない。

ボクはだから、知的労働者としてしか働けない。
自分の壁とともに社会の壁を抱えている。

能力があれば、ボクの場合はカバーできるだろう。
しかし、精神部分は頑張りすぎて精神的体力の維持が難しい。
課題としては常に状態ノーマライズして、自分に余裕のあるカタチで進めることが継続の鍵である。

器用ではないがボクは労働者としてボクは客観的に評価しても良いものを持っていると認識している。
社会で必要なスキルももちろんあるし、技能的なスキルもある。

社会(一人ひとり)が少し思いやりを持って、人を人として接すれば多くの財を成す。
人としてもそうだし、経済的にもそうだし、社会健全としても認識は変わる。

障害者はわかりやすい立ち位置にいるが、
それに手を差し伸べるか否かは思いやりのデジタルであらわすことができるのではないだろうか?

ボクは半分半分の認識で書いている。障害者であり、健常者であるとも考えている。
もちろん、病気があるから健康はどういう認識で捉えていいかはいまだにわからない。

ボクは一番大切なのは正当な評価がほしいにつきる。
これがあれば、よいこともわるいこともしっかり自分の位置がわかり進む方向も決めれる。

簡単なようで世間の人はこれにはなかなか目を向けられないというよりスキルを持っていない。

人の上に立つ人は絶対に必要な課題である。
ボクにもそういうメンター(師)にまた出会いたい。


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まだまだ、未知数。

今後、オーディオインターフェースを新調することでより良い環境でできるだろう。
UR44の使い勝手ははまだイマイチわからない。

そして、+48Vというボタンを押す重要を知った。
スクリーンショット 2015-06-27 19.06.25
(UR44はファンタム電源方式であるが、コンデンサーマイクはさらに電圧が必要)
ノイズを下げるのがこの方法なのだろう。
そして、入力の制限もここでやることが大切であることを知った。

実際あんまり賢くない自分もいるので、音楽機材を再び勉強中である。

だれもが最初は初心者である。
できない壁に悩まされるより、自分もゼロ、機材もゼロな感じで使いまわしていこうと思う。


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メンターの考え方

以前、メンターについて語っただろう。

メンターはあらゆる場所に存在する。
ボクにとっては”師”を表す。

だが、これについて違った視点を持った人もいる。
それはそれでいい。
それを大切にするべきだ。

人の考えは自由だ。
人をいじめたり殺さなければ、なんでもいい。
(ボクはいじめを人殺しと定義している)

メンターは絶対的、味方であり、肯定的な味方ができる人でなくてはならない。
この立場だけははっきり定義しておくと同時に差別化ができるからだ。

”師”を表す言葉で、英語圏で多いのがマスターが非常に多い。
だが、マスターは原義をたどれば絶対的存在である。
そして、空手や柔道の師範代や領主がこれに当たるので、言わば、支配者なのだ。
つまり、”主従の関係”を結ばなくてはならない。
時代は鎌倉時代と戻ってしまう。

ボクは”主従の関係”を嫌うのもあるから、メンターという概念を用いている。
また、メンターの方が組織を動かす時に大きなメリットがあるとも考えている。
マスターは権力的になるが、メンターは対等な人間関係を築くことができる。
マスターはスター・ウォーズだけで十分である。
(でも、実際の役割は師の扱いはメンターであるので、意味を理解すればここの大切さがわかる。
わかりやすく、マスターを利用している。)

人権差別をなくすのであれば、メンタリング・マネジメントを採用するのが当たり前であるが、
ボクはこれが一番いいと思っているがまだ落とし穴に気づけていない部分もある。
だから、これだけで進めよとは言っていない。
守ることではなく、本当に改良の余地というものは必然とあると考えているからだ。


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近年のメンターの扱いについて

単なる相談者となっている。 相談者はアドバイザーのような言葉が適宜である。 本来、メンターは意味が深い。 だが、本来のメンターの言葉を活用している人は少ない。 もともとは教育の言葉であるが、現代ではマネジメントの言葉として復活している。 だが、それは大半本来の意味をないがしろにされている。 とりあえず、使う。 だが、言葉の意味を間違うのは本来恥ずかしいことなのだ。 それはまさにヨダレを垂らしながら寝ているようだ。 (ボクは恥ずかしくないが、枕が濡れているのがいただけない…。) こっそりいうと大学生の時にヨダレ垂れ流して寝ることを身につけてしまった。 恥ずかしくない人は多々いる。ここにもいる。 けれど、それは赤ん坊とおじいちゃんの特権だ。 メンターは確かに相談者の由来もなくはない。 ホメロスの叙事詩では、テレマッコスの家庭教師の名をメントールといったに始まる。 映画やドラマのおぼっちゃまの執事がメンターに当たっているといった表現がわかりやすいだろう。 そこの真の意味は、”師”にある。 ボクが言葉にこだわりを持っているのは、言葉を大切にしているからだ。 そして、生まれた意味を知れば、単なる記号も行動促進の素材となる。 ボクのメンターは”師”を意味する。 マネジメント用語のメンタリング・システムは言わば、究極の師弟論だ。


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完成された文章

ボクは人間的な文章は作れる。

ただし、人が求めるものとは限りなく遠くなる。
世の中には素晴らしく、文章を表現される方がいる。

ボクはかつてのコンプレックスから求められるものに応えようと努力したが、結局独自の目線となった文章がそこに残った。

もし、直したなら根本的に直すか、全て別人が書いたような介入が入ってしまう。

人の書かれた文章を活かす。
つまりは、推敲するスキルはないのだろうか?

ボクは文章が書けなくとも、推敲を基に文章を活かすことでできることに気づいた。
そこから、文章を書くことに還元。

まわりくどいが、結局はマネなのだ。

深く考える必要はない。
あなたの文章はもうできている。
ニュアンスの近い作家とで会うことが大切だ。
それは、本でもWEBでもいい。

まず、書く前に自分における良質な文章に出会おう。

いわば、違和感や読みにくい文章書くには、たとえ嫌いでも波長のいい、リズムのいい文章に出会う。

ボクも出会えることには時間がかかった上、なおかつ読み方と書き方を結びつけるのが困難だった。

本は人と同じぐらい大切な出会いとなる。

あなたの可能性は出会いから導き出される。


過去にすがるな。過去に学べ!

過去は繰り返されると言う言葉がある。 ファッションや流行りものにも、似通ったものが世の中に広がる時期というものがある。 基本的にはボクは同じものを作らないようにしている。 そのため、いろんな知識の蓄積もありはしたが、癖も含めてわすれるために時間をおく。 だから、忘却の時間は重要だと思っている。 もったいいないという人もいるだろう。 残るのは何か…。 当然だ。 僕の導いた答えは、エキスと体験だけは残るということだ。 どんなに素晴らしい知識も引き出せないくらいに使えなくなることもある。 でも、新たなことをやるためには決別をしなくてはならないこともある。 また、冒頭では「同じようなものはつくらない」と言っているが、 昔は過去の実績や自慢で塗り固めていた自分がいた。 その性格は今でも抜け出せない部分がある。 ならば、そうならない環境を自分で作る必要があった。 だから、ぬるま湯のようなコンフォート・ゾーンを打破し、過去はあくまでひとつの事実と捉える。 つまりは、データとすることだ。 数字には感情はない。だが、読み取り次第で感情が生まれる。 だが、人は選択をする。 ボクは精神衛生で長く続けられるかが大きく変わる。 長く同じ分野をしたいのであれば、環境が悪ければ離れる。 たとえ、そこにスキルや経済的なメリットがあれど、苦渋の選択をして離れる。 一番のリスクは”続けられないから”だ。 自分にとって売りになるものを手放すことはしなくてもいい。 だが、心はスキルや経済面に比べての比重が高い。 ボクは綺麗事に聞こえるかもしれないが、何かを表現することで商売している。 だから、そこを潰されてしまう根本的を失うほうが怖いからだ。 でも、ボクは気持ちの切り替えも含めて全く別のベクトルを表現しようとしている。 新たな気持ちで新たなアイディアを創出する。 ボクは面白いことはいつも突然に怒ると思って期待している。 だが、それは感じること。つまり、感性・感受性がなければならない。 過去から学ぶは実際は今から学ぶに他ならない。 でも、結局は今という時点を体感している人は過去を体験しているのだ。 今は過去の集合体。 だから、今をまず学ぶことが大切なのだ。


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脳が旬が一番、効果が高い。

「脳が旬」、魚や野菜位のように興味ややる気の時期が最高に適した時期である。

当然のことだ。
しかし、見極めと活かせている人はなかなかいない。

時間が合わないと言って、結局旬の時期を逃している。

そして、義務感が湧いてしなくてはならなくなる状況に追い込まれる。
つまりは、余計時間を奪われることになる。

「脳が旬」ということはミスが少なく、きちんと定着されやすい。

ボクはこのタイミングを見逃さないように、ボク自身を注視している。
器用でもなく、面倒くさがりである自分には、この効果を利用しない手はない。

ボクは正直やることが多いため、そして人にあまり頼れない環境ゆえ自分で体得しなければならない。

でも、リスクとしていつ来るかわからないということだ。
自分で作り出せないのだから、大変なのだ。


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リテラシーの課題

現代では、読解は生きていく上で大切なスキルである。
特に情報は正誤かや見た目のどこまで正しいのかや深さについてもわからなくてはならない。

情報で踊らされては生きられない世の中だ。

もちろん、文章だけではない。
しかし、一番抽象的なのは文章であることには変わらない。
文章だけ相手していてもどうしようもない。

一番情報が多いのは人対人のコミュニケーションです。
人にはたくさん会話のだけでなく、言語だけでなく、表情、ボディランゲージの部分、あとはこれまでの人間関係から得た情報に基づくことで日常の判断は続く。

つまり、リテラシーは読み書き能力。
そして、読み書き能力から読解能力。
最終的に判断能力を身につける。

これが現代に求められるリテラシーの課題。


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Dyslexia(ディスレクシア)タイプの宿命

ボクは本を読むのが非常に早かった。
なぜなら、文字の認識を早くできなかったから、読めるところが限られていたのだ。

つまり、人間関係でも理解できるところが限られていた。
やはり、言葉通して人間関係を考えることが社会では多い。

ボクは小学生の時は”ひらがな”が主だったため、読みた実感があるが漢字が入ってくると次第に読み無くなっいった。
そして、音読では間違えたくなくても毎日のように間違える。
当時は、発表が好きだったため、ADHDの特性である部分の多動の部分と多注意の部分が入り混じっていても気づかれることがすくなかったが、音読の間違いはそれで気づかれにくかったのだろう。

ボクは中学から文章が読めない。
つまり、教科書の内容がわからなくなり、どうしても本から離れざるを得なくなってくる。
しかし、知識問題である漢字の読みだけは確実なものにした。
当時は問題に反抗し、先生に問題の回答と逆の答えを言ったのを覚えている。
自分の理解は人と相反するかのように思えてならなった。

しかし、中学のあるときから、自分は人と合わせることが困難になり、自分なりの道を模索し始める。

ディスレクシア、つまり識字障害。
読み書きや文字の認識ができない。
なかには、国語力での内容が把握できないため、理解が難しいため協調したくても、その過程が現状理解されない。

近年、認識は増えたが、理解は未だに進まない。

いわば、根性論ではなんの解決にもならないのだ。

ボクはこの場では端的に表す。
認知→理解→支援(行動)
となります。

そして、ボクは文章を書くことが、PCを得るまでまともに書けなかった。
もちろん、1文は書けるが、それをつなげることができなかったのだ。
従って、文章にはならなかったのだ。

今でこそ、人並みに書けるようになったが、本当に書けなかったので人の添削だらけの文章で自分の表現じゃないと感じていた。

今もまだ自分の表現には納得していないが、日々精進している。
全て完璧は難しい。

ディスレクシアはLDの核的な要素を持つ発達障害の特性である。
だから、取り除くことはできない。

解決すべきは、学習環境に他ならない。
大人になるまで、その環境にではなければ、社会適応はできない。
つまり、ディスレクシアの人がいくら努力しようが学習方法を身につけなければ、意味はない。
負の社会遺産を作り出してしまうのだ。

教育者に一手を任せるのではなく、理解し支援する人が増えれば、社会の遺産は大きく拡大する。